VJLS-JH'S ARCHIVE

  • In order to preserve the safety and wellbeing of VJLS-JH’s students, parents, and staff, we have decided to continue online learning for the remainder of the 2020 – 2021 school year and to not reopen classrooms in January. We know that many students and parents had hoped to be able to return to in-person lessons […]

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  •               – コミュニティ・インパクト委員会 ローラ雑本 寄稿 『バンクーバー朝日野球チームの必勝「ブレイン・ボール」(頭脳ボール)戦略が日系カナダ人建築と関係があるとしたらそれは何でしょうか?』 UBCの夏期学生Irene・Zhangと私が夏の間に行っていたヒストリック・パウエル通りウォーキングツアーで、この問いに対して答えを出すことは、「ハッ」とさせられる瞬間でした。 日本街・ジャパンタウンの建築の歴史や特徴を説明しながら、「日系カナダ人の建築様式とは何か?」 と自問自答していたところ、ピン!と電球が光ったのです。 まず、「ブレインボール」について説明してみます。 1914年に創設されたバンクーバー朝日野球チームは、パウエル・グラウンド(現オッペンハイマー・パーク)でプレーしていた日系カナダ人の野球チームでした。1930年代に太平洋岸北西部選手権で5年連続優勝を果たした。日系カナダ人と白人社会の人種統合の手段として活躍しました。 アジア人である朝日チームの選手たちは、パワフルな打者、つまり「スラッガー」と呼ばれるフィジカルなゲームをする白人選手たちに比べて背が低く、身体的にハンデがありました。 パワフルな打球で打ち負かすことができなかったので、「アウトシンキング」と「アウトラン」という戦略をとっていました。これは、バッティング、スピード、盗塁(スクイズ)戦略を駆使して勝つ方法です。 このスタイルは「ブラウン・ボール」の反語としての「ブレイン・ボール」と呼ばれるようになりました。弱点を強みにして、基本的には頭脳戦で勝負を有利にするというものです。では、日系カナダ人の建築デザインではどのように「ブレイン・ボール」が表現されているのでしょうか? そもそも、日本街・ジャパンタウンは、中華街が一見して中国的とわかるようには建築的にも文化的にも「日本的」ではないです。パウエル通りを走っていくと、戦前は通り沿いに400以上の企業が軒を連ね、8000人の日系カナダ人が住む活気ある市場村であったとはわからないのです。 第二次世界大戦中の処分と抑留は、もちろん文化的アイデンティティの連続性を断ち切りました。そして中を覗けば、はっきりとした特徴的な事が浮かび上がってきます。戦前における少数派「東洋人」人種の不平等が、この件を理解するための鍵となります。1897年から1901年の間に、約15,000人の日本人移民がBC州に定住し、木材、漁業、農業、小企業で働いていました。日本人移民には選挙権がなく、特定の職業に就くことが制限されていました。 経済的な繁栄とパウエルストリートのような活気あるコミュニティの構築に伴い、特に第一次世界大戦後、制度的な人種差別はより攻撃的なものとなりました。カナダ政府は、1920年代後半までに、日本からの移民を年間400人に、その後は150人に制限しました。また、日系カナダ人には漁業免許の割り当てが強制的に行われました。 強力な支配的白人エリートによる環境の中でもコミュニティは成長し、繁栄し続けました。「不平等のままでいなければならない」というプレッシャーは大きく、と同時に、自分たちの文化的アイデンティティを表現したいという欲求も強くなったのです。 では彼らが建築設計においてそれをどのように表現していたのでしょうか。それは、ある特定のパターンに現れているのです。 日系カナダ人は、支配的なアングロサクソンによるエリート的な価値観をよく理解しており、建物の基本的なデザイン全体の中でこれを目指していました。バンクーバーの新しい国定史跡となった築1928年のジャパニーズ・ホール・ヘリテージ・ビルディングが、そのことを示しています。 担当した建築家は、バンクーバーのトップ建築事務所の一つであるシャープ&トンプソン・アーキテクツでした。そこは、UBCポイントグレイキャンパスとバラードストリートブリッジを設計した設計事務所です。シンプルながらも壮大なアールデコ調のデザイン。 ゴア通りとパウエル通りの角にある壮大なレンガ造りの建物、Tamura BuildingはTownsend and Townsend Architectsが設計しました。 パウエル通りにある舞川デパートは、建築家T.L.カーによる見事なアールデコデザインです。 これらの建物のデザインは、当時の主流であったデザインの形に添っているのですが、よく見ると、日系カナダ人の名前が英語で綴られています。 例えば、タイルモザイクのジャパニーズホールの入り口の上には、「JAPANESE HALL」と英字で印刷されています。日本語のレタリングは選ばれていないのです。屋根の上のレプリカパゴダの田村ビルの上には、’TAMURA’の英字で印刷されているのがわかります。 同様に、舞川百貨店の2階にも「T. MAIKAWA」と英語のおしゃれなアールデコフォントのレタリングで印刷されています。これらはすべてオーナーの名前でした。 オーナーシップを公然と表現しながらも、威圧感のない控えめな表現になっており、よく見ないと気づかないことが多いです。 もう一つのパターンは、文化的なシンボルを自由に、そして控えめに使用していることです。 ジャパニーズ・ホールの場合、2階の西側と東側の窓の上の角をよく見ると、仏教のサンスクリット語で平和の象徴がモザイクタイルでデザインされています。日系カナダ人の初期入植者のほとんどが仏教徒だったので、このシンボルを知っているたのでしょう。 中央の窓の両側にはもみじの葉があり、中央の柱にはハナミズキの花や桜の花のようなものが彫られています。もみじの葉は、日本のもみじかカナダのメープルのどちらかで、どちらにしてもカナダと日本の強力なシンボルです。また、ハナミズキの花や桜の花もまた、カナダと日本の強力な文化のシンボルです。 これらを自由に解釈できるようにしておけば、両文化への忠誠心を示すことができるかもしれません。文化的なアイデンティティを表現するために、いろいろな形で表現が試されていることがわかります。 最後に、日系カナダ人の文化的な声は、シンプルさ、倹約性、実用的な機能性を備えた物理的なデザインに統合されていることを述べておきます。確かに多くの建築デザインには壮大さがありますが、それは空間の機能性、線のシンプルさ、そして文化的な表現の静かさ、派手さではなくその静かさによって和らげられています。これらは私にとって、日系カナダ人の建築が持つ「頭脳戦」の戦略を示すものであり、日系カナダ人コミュニティが制約の中でも様々なレベルで繁栄できた所以だと思っています。次回、日本街・ジャパンタウンを訪れた際には、表層下に日系カナダ人建築のブレイン・ボール戦略を見に来て下さい。

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  • By Laura Saimoto, Community Impact Committee What has the famous Asahi Baseball’s team’s winning brand of ‘Brainball’ got to do with Japanese Canadian architecture? The answer to this question was an ‘aha’ moment for our UBC summer student, Irene Zhang, and myself during our Historic Powell Street Walking tours.  As we explained the architectural history […]

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  • Anna Goddu, Sheker Mammetgurbanova Check out their Visitlist: Uncovering Japanese-Canadian History in BC

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  • By Irene Zhang, Heritage Programming Coordinator UBC summer student In Feb this year, I was one of 20 UBC students who volunteered for the UBC Community Engaged Learning Reading Week Project at the Vancouver Japanese School and Japanese Hall.  Like many of us, what I knew about the Internment of Japanese Canadians was limited to a single […]

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  • VJLS-JH Board Chair: Debra Saimoto Dear Graduates of 2020, Congratulations on getting here.  With the advent of COVID-19, being able to finish the school year is something to celebrate as it is an accomplishment just to adjust to the new reality.  I want to thank you for hanging in with us to complete the year […]

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  • Bike Route of Japanese Canadian Historic Sites START 487 Alexander Street Vancouver Japanese Language School and Japanese Hall: The Vancouver Japanese Language School was founded in 1906 in a newly-constructed wooden building at 439 Alexander Street, right in the heart of Vancouver’s Powell Street neighbourhood. From the early 1880s, Japanese pioneers to Canada began to […]

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  • By Laura Saimoto 雑本ローラ, Community Relations Committee 管理事務所から送られてきた祖父の事件簿(約500ページ)を初めて開いた時、手書きで9609番の文字がありました。 これは何を意味するのでしょう? 9609は祖父の被抑留者番号で、1942年から49年までの日系カナダ人の抑留・強制連行を行った政府機関である管理局によって割り当てられていたのです。抑留された日系カナダ人成人の1万5千件に及ぶ事件簿の中で、祖父、雑本国松に割り当てられたのが、9609番だったのです。 祖父の話は聞いていましたが、会ったことはありません。 祖父母とも私が生まれる前に亡くなっていたからです。 祖父の4隻の引網船や家族の写真、戦前にスティーブストンにあった家や車の写真は見たことがありました。 孫娘が祖父を知りたがるのは当然のことで、祖父が誰なのかもっと知りたいと思いました。 そして、この政府の文書が何を伝えているのだろうと考えました。ページを読み進むにつれ、涙が頬をつたっていきました。組織的に民族を抹殺しようとする政府によくあるように、管理局は自らの正当性を証明するべく、驚くほど綿密で詳細な記録を取っていたのです。 日系カナダ人の抑留と処分は、冷酷な組織的管理の下に行われ、すべてが文書化されていたのです。 読み進めていくと、法的、財政的、行政的な詳細が山のように出てきました。彼の船舶のサイズ、戦争直前に購入した新しいディーゼルエンジンの年数、スティーブストンにおける所有地の数、寝室の数など。点と点を繋げていくうちに、祖父の人となりの明確なイメージが浮かびあがり始めたのです。 私が伝え知っていたのは、祖父は1890年に和歌山県の小さな貧しい漁村で生まれたということでした。 日本海軍の魚雷砲手であった彼の兄が、祖父が16歳の時(1907年)に徴兵制を避けてカナダに移住して、希望の土地にて一財産を築くように勧めたのでした。 小学校6年生までの教育を受けただけで、英語を全く知らなかった彼はスティーブストンに定住し、やがて魚のバイヤーとなり、4隻の引網船を所有し、200人の漁師を契約で雇うまでになりました。彼は個々の漁師の漁獲物を買い取り、まとめて缶詰工場に大量契約で販売していたのでした。やがて祖母と結婚し、10人の子供をもうけました。スティーブストンの一戸建ての家に住み、1939年式の新しいドッジ車を運転していました。彼は故郷からカナダに移住する多くの友人の後ろ盾となっていました。根性があり、ビジネスに精通し、高潔で、家庭的な人でした。 読み進めていくうち、祖父は活動家だったこともわかりました。 活動家といってもいわゆる「アンチ運動」や「パウエルストリート占領」を唱えるプラカードを掲げるタイプとは違います。 路上で暴動を起こしたり、略奪したり、警察署を焼き払ったりしたわけではないですが、それと同じような怒りを感じていたのだろうと想像に難くはありません。 新カナダ人として、彼はカナダの権力構造と民主主義に根ざした制度システムを徹底的に学び、適応していたのです。 彼ストリートスマートだったので、自分自身の価値や自分が築き上げたものの価値をわかっており、信念のために立ち上がりました。 カナダの「システム」がどのように機能しているかについて、彼が持っていた驚くほど詳細で深い知識にそれが現れていました。 彼はシステムを利用して、自分自身のために、公平だと信じていることのために、平和的に立ち上がることができました。 要するに、彼は不正の犠牲者にはならなかったのです。 制度の中で制度を使うことで、彼は勇敢にも制度に挑戦したのでした。 祖父は、自己資産の業務記録を綿密に取っていました。 彼は情報が文書化された時の力を知っていたので、コストや収益だけでなく、買い替え費用のための保険、評価や鑑定書、公証賃貸借契約書による家主のテナントの取り決め、減価償却費記録などを取り揃えていました。 彼は、カナダのビジネス、財務、法的構造を理解していました。 市民権の成り立ちを理解していたのです。 1948年、彼と他の日系カナダ人は、いわゆる「バード・コミッション」と呼ばれる要求でカナダ政府を訴えました。 これは私の祖父、そして日系カナダ人の活動の驚くべき記録です。 彼らは、財産没収や強制売却について政府に直訴したのではなく、自分たちの資産の切り下げと、そのために受け取った報酬の低さに異議を唱えたのでした。私の祖父にとっては、スティーブストンにある家、4艘の船、車、そして最大の資産である大型船、May S号でした。  60フィートの長さの引網船であったMay S号は1942年2月15日にカナダ海軍に没収されました。「日本漁船処分委員会」の名の下、カナダ海軍が小型の日本漁船を検挙するためにMay S号を使用したのです。建設費(添付書類を参照)は合計で$16,825.80で、保険で定められた交換価値は$18,000でした。 保険価値は$11,000になり、譲り受けたカナダ海軍による現在価値は$10,500。そして1942年の政府の評価額は$8,750となり、祖父は$8,057.50ドルの補償を受けとりました。 結果的には、委員会は彼らの評価が実際の価値の10%も過小評価されていたことをしぶしぶ認めました。ですが、ここで重要なのはその割合ではないのです。 これらの日系カナダ人は、自分達と資産の価値を知っており、立ち上がり、結果がどうであれ、自分たちの価値を肯定させたのです。 行政的に悪質な、被害者に貶めようとする動きのなか、彼は被害者にはならなかったのです。胸が張り裂けそうになるほど辛かったはずなのに、彼はあきらめなかったのです。ページの隅々まで加害者のルールを逆手にとってモラルの破綻を暴くことで、彼の尊厳は輝きを放っていました。 祖父は破壊によってではなく、市民権の原則、地域社会のリーダーシップ、人権の尊重、正義、そして起業家精神をもってして行う活動家の道を選んだのです。 事件簿9609番。 それが祖父、雑本国松だったのです。

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  • By Laura Saimoto, Community Relations Committee When I first opened my grandfather’s case file (about 500 pages) from the Office of the Custodian, there was a handwritten number:  9609.  What did this mean?  It dawned on me that 9609 was my grandfather’s Internee number, assigned by the Office of the Custodian, the government authority that […]

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  • Dear Students, Parents, and Guardians, Your support and feedback over the last two months, as we’ve moved our classes online in response to COVID 19, has been greatly appreciated and we look forward to celebrating your achievements in just a few weeks time. Our staff are planning ceremonies for our graduating students and we look […]

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