ローラ・サイモト、コミュニティ・リレーションズ・コミッティー

3月中旬にコロナ禍が顕在化してきた頃、普段通りの暮らしをしていた私はニュースを見ているうちにデジャヴを感じました。その後、自分の知っていた日常が終わりを告げました。まず渡航禁止、学校閉鎖、業務停止、自己隔離、そして漠然とした恐れと不透明な空気が立ちこめていきました。それが大変深刻なことで、今までの日常はもう帰ってこないということはショックでしたし、一寸先は闇でした。

この激動の渦に私は飲み込まれていました。感染状況や人命の危機、最前線の医療従事者のこと、高齢者の施設のこと、そしてすべてが山火事のように地球規模で広がっていることなど、一日に何度もニュースを確認していました。

恐怖のエネルギー、通りの静けさ、バンクーバーのダウンタウンやガスタウンの板張りの店はまるでゴーストタウンのよう。そして特にニューヨークのセントラルパークに設置されたその場しのぎのトリアージ病院の映像は、私にある気づきをくれました。こんなことは初めてなのに、なぜデジャヴを感じるのだろう?これは私の両親、その家族、そして日系カナダ人コミュニティ全体が、1941年12月から1942年初頭に第二次世界大戦が勃発した時に感じていたことだったのではないかと。

母方の家族はブリッジリバーと東リルエットに、父方の家族はミント鉱山に抑留されていたことを伝え聞いていた私は、日系カナダ人の歴史教育の推進を提唱し続けていました。その為歴史的事実を知っていたし、自分の家族の写真を含む多くのアーカイヴ写真を見ていましたし、家族やコミュニティメンバーから沢山の話を聞いていました。セントラルパークにあるその場しのぎのトリアージ病院の写真を見て、私はすぐに、抑留先へ送られる前に日系カナダ人が収容された、その場しのぎのベッドがPNEの畜舎に作られたヘイスティングスパークの写真を思い出しました。

パウエル街における戦前の日系カナダ人コミュニティは、パウエル通り沿いに8000人の日系カナダ人が住み400以上の企業が軒を連ねる、驚くほど活気に満ちた市街地でした。 日本語学校および会館には、1000人以上の学生が第二外国語学校として通っていました。 真珠湾攻撃が起こった直後すぐに外出禁止令が出され、企業も新聞社も日本人学校も閉鎖されました。そして、すべての窓に板張りがなされました。一夜にしてストラスコーナ小学校の生徒数は1200人から600人に減少したのです。それは、生徒の半数は日系カナダ人で、学校に行くなと言われたからです。

民族が違うというだけで、罪のない日系カナダ人の家、財産、船、会社などは連邦政府によって没収され、売却されました。一夜にして、日々の暮らしや人生、移動の自由などの権利を失ったのです。 当時は緊急給付金もEI賃金補助金もありませんでした。彼らは物だけでなく生活すべてを失い、先の見えない状態でした。 私たちは今コロナの短期的な影響と長期的な影響の両方に恐怖を感じていますが、公民権が全停止された当時の日系カナダ人のコミュニティにおいては、その恐怖の度合いは桁違いだったに違いありません。

2万2千人の日系カナダ人が1942年から49年までの7年間、国家の安全保障上の脅威であるという理由で海岸の東100マイルにある荒れ果てた農地やゴーストタウンに強制的に移転させられました。 その間移動の自由はなく、収容所には当初仕事も学校もなく、日系カナダ人の子供たちは白人学校に通うことも許されていませんでした。

それなのに、抑留所の写真、特に子供たちの顔を見ると、みんな身なりが整っているのです。子供たちは幸せそうで健康そうなのです。 地域社会の生活は再構築され、各収容所では事実上の自給自足の経済を築いていました。リルエットでは例えばトマト栽培をし、販売を始めたりしていました。学校も建設して児童教育が続けられるようにしました。互いに交流しながら、コミュニティを再構築していったのです。

コロナ禍が始まってからは毎日、私は東リルエット高校卒業式の時の母の美しい写真(上の写真)を見ています。腕のいい裁縫師であった祖母が縫った白いドレスを着たこの写真は、収容所にあったリルエットの小屋の前で撮ったものです。私にとってこの写真は、母が人生について教えてくれたことのすべてです。当時のひどい苦難にもかかわらず、母の家族や地域社会は団結し、子供たちに人生を与えてくれました。

持ち物、技術、健康、勤勉さ、想像力、そして集団的な組織と努力の精神を最大限に活用して乗り切ったのです。 貧しかったにもかかわらず、祖母はシンガー社のペダルミシンを持って収容所に行き、他の地域の人たちのために服を縫ったり、高校を卒業する母のためにこの美しいドレスを作ったりしました。先輩が後輩を教えたり、通信教育で高校の授業を受けたりと、現代の遠隔教育にも通じるような手作りのコミュニティスクールで、母は学年を飛び級して収容所の中で高校を卒業することができました。 学歴格差を抱えてバンクーバーに戻った母は、皆に追いつくために必死に努力し、UBCを卒業して家庭科の教師になりました。

母の日を前にして、東リルエットでの母の卒業写真を見ながら、母と祖母が教えてくれたことへの感謝と畏敬の念を強く感じています。 今、母は80代後半になり、認知症で短期的な記憶力が低下しています。老人ホームにいる母とは、スカイプを使ってチャットをしています。彼女の生命力の強さは、かつて母に言われた言葉を思い起こさせます。 “これを乗り越えることができれば、どんなことでも乗り越えることができる ”

お母さん、ありがとう。